レピュブリック広場を散歩するとき、このパリの大広場の 歴史、特にその中心にある印象的なモニュメントについて考えたことがあるだろうか?
もともとレピュブリック広場はパリの小さな広場にすぎなかった。しかし、19世紀にはパリの交通の要所となり(現在もそうだ!)、1811年に広場に設置されたシャトー・ドー噴水からシャトー・ドー広場と呼ばれるようになった。この噴水は小さすぎたため、後にラ・ヴィレットの屠殺場市場に移され、牛の飲み水桶として使われるようになった。
その直後の1854年、 オスマン男爵によって、第二帝政期のパリを再編成する壮大な計画の一環として、シャトー・ドー広場が整備された。オスマンはテンプル大通りにあったいくつかの劇場を取り壊し、大きな長方形の広場を作った。建築家ガブリエル・ダヴィオーは、8頭のブロンズのライオンで飾られた新しい噴水を作り、これも12区のフェリックス・エブエ広場に移された。
1879年、共和国の価値観に敬意を表して、この広場はレピュブリック広場と改名された。これを記念して、この広場に共和国の偉大さを讃える記念碑を建てるための建築コンペが開催された。コンペを勝ち抜いた モリス兄弟は、ブロンズ製で高さ25メートルの「共和国記念碑」を制作した。1883年7月14日、銀行休業日に落成式が行われた!
パリ占領中、ドイツ軍はレピュブリック広場の兵舎に軍隊を収容した。1944年8月25日、フランスのレジスタンスと兵士たちによって奪還された最後のドイツ軍の拠点である!
2013年、レピュブリック広場は全面的に改装された。パリ市議会は、歩行者、スケートボーダー、サイクリストに場所を提供するため、自動車専用エリアを縮小した。今では、友人とのアペリティフやイベント、野外コンサートを開くのに最適な場所となっている。家族連れや夜更かし族に人気のレピュブリック広場は、夏の夜の楽しみがいっぱいです。