1896年9月10日木曜日、前代未聞の規模と暴力を伴う自然現象および気象現象が首都の通りを襲った。この竜巻は、パリを通過した最初で最後のもので、サン・シュルピス広場と ビュット・ショーモン公園の間を通過した際に、甚大な物的被害をもたらし、5人が死亡した。
パリとイル・ド・フランス地方はすでに数週間激しい嵐に見舞われていたが、1896年7月26日、特に激しい雹の嵐に見舞われ、モントゥリス地区、ベルヴィル地区、ヴァンセンヌの森、ブローニュの森が被害を受けた。嵐は木を根こそぎにし、花壇を荒らし、屋根を剥がし、店の窓ガラスを割った。
11歳の少女と20代の女性、2人のパリジェンヌが 命を落とした。1人目は13区の洗濯場の倒壊、2人目はポルト・ディヴリーの要塞の頂上からの落下によるものだった。しかし、パリ市民が1896年夏の悪天候のクライマックスになると思っていたものは、実際にはクライマックスには達しなかった。
1896年9月10日午後3時前、パリは再び雷雨に見舞われたが、この雷雨はすぐに、これまでの雷雨とは比べものにならないほど恐ろしく劇的な展開を見せた。6区の中心部、北のリュクサンブール公園と サン・シュルピス広場の間で、見物人の驚愕の眼前に竜巻が発生したのだ。
最高 220km/hの突風を伴い、藤田スケールでカテゴリーEF2のこの竜巻は、首都の北、6区、1区、3区、10区、19区を一直線に進んでいる。サン・シュルピス広場を横切り、木々が根こそぎ倒れ、本が散乱したグラン=オーギュスタン通りを 通り、破損したはしけが沈没したセーヌ川を渡り、ポン・オ・シャンジュを経由してシテ島西部に達した。
右岸では、 平均幅300メートルの竜巻が壊滅的な被害をもたらし、シャトレ広場に到達して劇場の屋根を剥がし、サン・ジャック寺院の前を通過してガーゴイルの首を切り落とし、レオーミュール通り、トゥルビゴ通りを経て レピュブリック広場に到達した。しかし、現象はそれだけにとどまらない!
その後、竜巻はサン・マルタン大通り、 マジェンタ大通り、サン・マルタン運河へと移動し、女性と子供が水中に投げ込まれた。竜巻は最終的にビレット大通りで終息し、ビュット・ショーモン公園を通過したが、近くの遊園地に大惨事をもたらすまでには至らなかった。
わずか3、4分で、隊列はパリを南西から北東に横断し、 6.3キロメートルに及び、行く手すべてをなぎ倒した。栗の木、ニレの木、プラタナスの木が倒れ、屋根や街灯が引きちぎられ、オムニバスが風の力で持ち上げられて歩道に横倒しになり、多くの馬車も倒れた。
しかし、悲しむべき不幸は物的損害だけではなかった:70人近くのパリ市民が重傷を負い、5人が脳挫傷や頭蓋骨骨折で命を落とした。その中には、アイアーズと呼ばれるイギリス人騎手、馬車から飛び降りた30歳のコーチ、ジャン・ポルタル、レオン・ヴァンデルハーグルが含まれていた、日雇い労働者のレオン・ヴァンデルハグル、マジェンタ大通りで屋根から落下した300kgの鉛板に押しつぶされた、あるいは倒された5歳の少年アントワーヌ・ルーシェ、風の力で持ち上げられてポン・オ・シャンジュの欄干に投げつけられた。
その翌日、自治体はパリの通りの清掃を行い、犠牲者の葬儀のために1万フランを用意した。新聞はこの話題を取り上げ、現象を目撃した人々の証言を集めた。新聞の見出しは多くのパリ市民を驚かせたに違いない!
実際、竜巻はその猛威にもかかわらず、 首都のごく一部にしか影響を与えなかった。モンマルトルでも、9区でも、シャンゼリゼ通りでも、シャン・ド・マルスでも、この間、ひどいサイクロンがパリに大災害をもたらしたとは誰も思わなかった。雨が降った。4時にはサイクロンは去った。空が和らいだ。雨は完全に止んだ。
1896年9月10日の竜巻は、首都の歴史上唯一、そして唯一の竜巻として知られているが、その発生から消滅に至るまで、都市環境のみで発生した 竜巻としてはフランスで唯一のケースでもある。
所在地
サン・シュルピス広場
Place Saint-Sulpice
75006 Paris 6
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Iconographies: Header: RUE DES ARCHIVES/PVDE サイクロンの形成、サン・シュルピス広場。ムーリニエとルドンによる自然を模したデッサン 暴風雨通過後のセーヌ河岸、ジョルジュ・ルドンによるエングレーヴィング 1896年9月10日の竜巻 この出来事を報じた当時のプレスカット