1863年8月13日未明、ウジェーヌ・ドラクロワは、1857年に移り住んだフルステンバーグ通り6番地の アパルトマンで、 家政婦のジェニー・ル・ギユーに付き添われながら息を引き取った。
ウジェーヌ・ドラクロワは、外務大臣で後にオランダ大使となった父と、ルイ15世に仕えた 家具職人の娘である母とともに幸せな幼少期を過ごした後、パリにやってきた。ウジェーヌ・ドラクロワは母とともにユニヴェルシテ通りに移り住み、 リセ・アンペリアル(現在のリセ・ルイ=グラン)に通った。1815年、叔父の画家アンリ=フランソワ・リーズネルの 支援を受け、パリ屈指の画家ピエール=ナルシス・ゲランのアトリエに入る。
1822年に《 冥界のダンテとヴァージル》、1824年に《スキオの虐殺の情景》、1927年に《 サルダナパルスの死》を サロンに出品。ラファエロ、ミケランジェロ、ルーベンスの作品に触発されながらも、アカデミックなルールを覆したいという欲求に駆られた。
1830年7月のパリの蜂起に着想を得た彼の最も有名な傑作のひとつ『民衆を導く自由の女神』は、リュクサンブール美術館に展示された後、1855年の万国博覧会に出品され、1874年にルーヴル美術館に収蔵された。
ウジェーヌ・ドラクロワは生涯を通じて、 パリのさまざまな 建造物のために 、主に宗教的な モニュメンタルな装飾を手がけた。 サン=ポール・サン=ルイ教会のための《オリーブの園のキリスト》(1826年) 、サン=ドニ=デュ=サン=サクレマン教会のためのピエタ、ブルボン宮のサロン・ド・ロワの装飾(1834年)、デピューテ礼拝堂の天井(1837年)、リュクサンブール宮の図書館の装飾(1845年)などである。
また、1850年にはルーヴル美術館のアポロンのギャラリーの天井をデザインし、1849年にはサン・シュルピス教会の聖天使礼拝堂の装飾を手がけ、この礼拝堂の天井画と2つの大きな壁画(La Lutte de Jacob de avec l'Angeと Héliodore chassé du temple)、1854年にはオテル・ド・ヴィルのサロン・ド・ラ・ペの装飾画を制作した。
ウジェーヌ・ドラクロワは パリに10軒の家と6つのアトリエを構え、1863年8月13日に亡くなったのはフルステンバーグ通り6番地だった。 緑豊かな庭のあるこの 伝説的な場所は、1932年にドラクロワ美術館となった。
所在地
ウジェーヌ・ドラクロワ国立美術館
6 Rue de Furstenberg
75006 Paris 6
アクセス
地下鉄10号線「マビヨン」駅
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ピエール・プティによるウジェーヌ・ドラクロワの肖像。カルナヴァレ美術館