1974年9月15日日曜日、 サンジェルマン大通りの ピュブリシス薬局で手榴弾が爆発した。人の死者と30人以上の負傷者を出したこのテロの背後には、1970年代から80年代にかけて 反帝国主義テロリズムの象徴的存在であったベネズエラ人 カルロスがいた。
レンヌ通りとサンジェルマン大通りの角にあるサンジェルマン店は、1965年10月19日、サンジェルマン・デ・プレ地区の中心にオープンした。ピュブリシスグループが シャンゼリゼ通りにオープンした最初のドラッグストアの成功から7年後のことである。
レ・ドゥ・マゴ、カフェ・ド・フロール、ブラッスリー・リップから目と鼻の先にあるサンジェルマン王宮の敷地内にあるこのドラッグストアは、ジャック・デュトロンや セルジュ・ゲンズブールを含むパリジャンたちの間で瞬く間に人気店となった。
1974年9月15日日曜日、午後5時10分、ドラッグストアの 中2階レストランから 手榴弾が投げ込まれ、下の商店街で爆発した。爆発は床板に15センチのクレーターを残した。子供4人を含む34人のパリ市民が負傷 し、2人が 命を落とした。
現場に出動した捜査官は、瓦礫の中から防御用の手榴弾解除レバーを発見し、テロリストの特徴を示す 目撃者の証言を取った。しかし、その間に踵を返したその人物は、捜索されたが発見されなかった。
捜査の結果、この手榴弾は1972年にドイツの米軍基地から盗まれ、バーダー一味、 赤軍派、ドイツ革命細胞による他の攻撃や武装強盗に使用された破片手榴弾の一群に由来することがすぐに判明した。数多くの活動家が尋問されたが、効果はなかった。
それから5年後の1979年12月13日、捜査が滞っている間に、70年代から80年代にかけての国際主義者であり親パレスチナ革命テロリズムの担い手であった カルロスことイリッチ・ラミレス・サンチェスが、レバノンの新聞『アル・ワタン・アル・アラビ』のコラムで彼の秘密を暴露した友人のジャーナリストから、日本赤軍の名による攻撃の責任を主張された。このインタビューは数日後、ル・フィガロ紙に転載された。
物語は、極左テロと カルロスのキャリアの始まりの時代、イスラエルの航空会社エル・アルがオルリー空港で襲撃され、ウィーンの石油生産国機構で 人質事件が発生する1年前まで遡る。
1974年、サンジェルマンのドラッグストア爆破事件当時、イリッチ・ラミレス・サンチェスは パレスチナ解放人民戦線(PFLP)の武装組織のリーダーであり、ロンドンとパリで数件の爆破事件を引き起こしていた。
1974年7月26日、サンジェルマン爆破事件の数日前、PFLPの支部に近い運動である日本赤軍(JRA)のメンバーであった 革命家、山田義昭がオルリー空港で逮捕され、パリに収監された。カルロスとミシェル・ムカルバルは、彼の釈放を得るために、オランダの ハーグにあるフランス大使館で人質作戦を組織することを決定した。この作戦は1974年9月13日、日本のARJによって実行された。
しかし、フランス当局は脅迫に屈しなかった。そこで、 フランス政府に圧力をかけ、日本の革命家と共犯の日本人の解放を早めるため、カルロスは2日後にサンジェルマンのドラッグストアを襲撃した。他の同様の行動を恐れていたフランス政府は 譲歩し、最終的に人質犯が逃亡を望んでいたボーイング707を 30万ドルという金額とともにオランダに送る ことに同意した。 山田義明は1974年9月17日に解放された。
何年も逃亡を続けたカルロスは、1994年8月15日、偽の外交旅券で不法滞在していたスーダンで逮捕されるという奇妙な展開になった。サンテ刑務所に収監され、その後ポワシー中央刑務所に収監されたベネズエラ人テロリストは、フランス国内で行われた数々のテロ事件により、3度にわたって 終身刑の判決を受けたが、後にサンジェルマンのドラッグストア襲撃事件への関与を常に否定していた。サンジェルマンのドラッグストアは1996年に閉店し、代わりに既製服のブティックがオープンした。