パリの街並みは時代とともに変貌を遂げ、ある場所の過去を再発見して驚くことがある。アール地区は特にそうだ。現在のジョアキム・デュ・ベレー広場( )には、当時パリで 最も重要な墓地のひとつであったシメティエール・デ・イノセントがあった。
この墓地の起源はメロヴィング朝まで遡り、1780年に閉鎖されるまで約1000年間、パリ市民の遺骨が埋葬されていた。 200万人のパリ市民が埋葬されたと推定されている。サン・ミッシェルを祀る最初の礼拝堂は、1130年頃、太ったルイ6世の命により、より大きな教会に建て替えられた。聖イノセントに捧げられたことから、この名がついた。
パリの人々の日常生活のランドマーク、イノセントの墓地
教会、集団墓地、 噴水の他に、イノセント墓地には2つの 牢獄があった。これらの小さな独房には、囚人が収容され、壁で囲われていた。最初のイノセント墓地は、パリで最も有名な墓地である。2つの格子の抜け穴があり、1つは食料を持ち込めるように外側に開き、もう1つは世捨て人が宗教儀式に出席できるように教会の内側に開いていた。
シメティエール・デ・イノサンには4人の 隠遁者の名前がある。一人目のアリックス・ラ・ブルジョットは46年間隠遁生活を続けた。二人目のジャンヌ・ラ・ヴェリエールは、アリックス・ラ・ブルジョットがすでに18年間独房にいたにもかかわらず、 世捨て人として生きることを希望した。そこで2人目の世捨て人が作られた。姦通と夫殺しの罪で有罪判決を受けた ルネ・ド・ヴァンドモワは、世捨て人として生涯を終えるよう宣告された。最後に、4人目の世捨て人として知られるのは、ジャンヌ・パノンセルという未亡人であった。
この 墓地は、控えめに言ってもパリジャンたちにとても人気があった。賑やかな集会所であり、昼間は商人や散歩をする人々が頻繁に訪れていた。しかし、夜になると、この墓地は人気がなくなった。パリの22の教区の遺体、オテル・デュー病院の遺体、1348年の黒死病の犠牲者の遺体、シテの死体安置所の身元不明者の遺体、セーヌ川で溺死した人々や公道で死亡した人々などが、集団墓地に埋葬された。
イノセント墓地の終わり
狭い墓地には、あまりにも多くの遺体が埋葬された。また、9日間で土が死体を食べてしまうとも言われていた。取り除かれた骨を収容するために、墓地のあちこちに集団墓地が増設された。旧墓地の南側、フェロンヌリー通りに平行してあるシャルニエ・デ・ランジェールは、ダンス・マカブレを描いたフレスコ画で知られていた。このフレスコ画には、貴族、宗教家、農民、そして君主までもが死者の後を追わされている様子が描かれており、誰もこの運命から逃れられないことを思い起こさせる。
しかし、1000年にわたる活動の後、パリの中心部に位置する 墓地は不健康になった。あまりの混雑ぶりに、地面の高さは周囲の道路よりも2.50メートルも高かったと言われている。さらに、1765年に制定された法律では、不衛生を理由に町内の墓地を禁止していた。1780年、イノセント墓地が閉鎖される決定的な出来事が起こった。埋葬された死体の重みで仕切りが壊れ、パリジャンたちの亡骸がレストランのオーナーの地下室に流れ込んだのだ。墓地は1786年に破壊された。
イノセント墓地跡
現在、このパリの墓地はほとんど残っていない。そこに埋葬された人々の遺骨は、現在パリのカタコンベで見ることができる。ジョアキム・デュ・ベレー広場には、今は破壊されてしまったが、イノセント教会に隣接する泉があった。 フェロンヌリー通り8番とイノサン通り15番では、かつて墓地の2つの集団墓地を支えていたアーチを見ることができる。ルーヴル美術館と カルナヴァレ美術館にも遺骨が保存されている。